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土屋惣蔵の墓

土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡


○博アーカイブはこちら
土屋惣蔵昌恒は金丸筑前守虎義の五男として生まれました。金丸氏は、現在南アルプス市徳永の周辺を治めていた武田家の重臣です。惣蔵は成長ののち駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋姓を名のることになりました。
惣蔵は、信玄の病没後、その家督を継いだ武田勝頼の側近となります。勝頼が田野の地に追われた時、勝頼に従った人数は惣蔵をはじめわずか数十人だったと言われます。天目山で最後まで勝頼を守り抜いた惣蔵の姿は、武田家最後の忠臣として今も語り継がれています。
次に、片手千人切りへ至る伝説の軌跡をご紹介しましょう。
天正十年(1582)
 長篠の戦いで敗れた武田勝頼が、体制を立て直すた
め韮崎市七里ヶ岩の上に新しい府中である新府城を
築き、甲府から拠点を移したのは天正九年十二月のこ
とでした。しかし翌年の一月末には、織田信長の支配
する美濃との国境を守る木曽義昌が反旗をひるがえ
して織田と結ぶと、二月三日に信長は勝頼討伐を決
定します。そして伊那・飛騨から織田軍、駿河から徳
川軍、伊豆、相模、上野から北条軍の侵攻が始まりま
す。すると信玄の娘を妻としている親族衆穴山梅雪(ば
いせつ)までもが徳川家康に寝返るなど、武田軍は目ぼ
しい抵抗もできないまま総崩れとなりました。勝頼は
三月三日には完成したばかりの新府城を捨てて、譜代
(ふだい)の家臣小山田信茂(のぶしげ)の薦めた郡内の岩
殿城を目指すことになります。この時付き従う家臣は
およそ六百名でしたが、郡内へ向かう途中にも多くが
離反し、さらに小山田信茂までもが裏切ったため、一
行は笹子峠を越えることができませんでした。
 三月十一日、勝頼一行は五千もの織田軍に現在の甲
州市大和町田野に追い詰められます。数万の軍勢を動
かしてきた武田家もこの時まで勝頼に従った武将はわ
ずか四十人。その中には武田家の重臣で、南アルプス
市徳永の長盛院の地に館を築いていた金丸筑前守(か
ねまるちくぜんのかみ)の3人の息子たちがいました。そ
のうちの一人、五男の土屋昌恒(まさつね ※1)は、すでに
勝敗が決している戦いの中で大軍を前に弓で奮戦し、
最後まで勝頼を守り続けました。昌恒の働きは、戦後
織田方からも賞賛され、「よき武者数多を射倒したの
ちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と『信
長公記』に記されています。
 信長の侵攻からわずか一ヵ月半、勝頼は自害し、昌恒や他の兄弟も最後まで武田家と命運をともにしま
した
天正十七年(1589)
 徳川家康は鷹狩りの途上、静岡県清見寺を訪れま
した。そこで一人の子供と出会います。その子がお茶を
出す姿に、家康は「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住
職に問いました。住職が土屋昌恒の子と伝えるとあの
忠臣昌恒の子かといたく納得し、家康が身柄を引き取
ることになります(※3)。この男児は後に土屋忠直と
名のり徳川秀忠に仕え、その後千葉県久留里(くるり)
藩主となり、子孫は全国に広がっていくことになりま
す。

そして、物語はまだまだ続きます、、、みなさんご存知の忠臣蔵に登場することになるのです。
忠臣蔵のクライマックスの名シーン!吉良邸討ち入りでの高提灯のシーンをご存知でしょうか?
討ち入った赤穂浪士による「申し上げまする!我ら赤穂藩、、、」と隣家に名乗りをあげるシーン。
隣家は「心得ましたと大磯殿へお伝えくだされ」と伝え、仇討ちを助けるべく高提灯を掲げ、家臣には塀を越えて逃げてくる吉良のものは打ちとめよと伝えるのです。
この家こそが久留里藩主土屋主税の宅であり、
高提灯には土屋の家紋「九曜」と「三つ石畳」が描かれているのです。
子孫の活躍が伺えるエピソードですね。

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